四十四、保養
ちょっと、休養に出かける場合にはブライトンに行く。クリスマス前にも度々行ったし、四月の復活祭にも行った。海の風を吸いに行くのである。
しかしちょっと、気を紛らそうという時には、旅行しないで、アイバンホーや巌窟王を読んだり、有名なキーツの芝居を見に行ったり、ヂェンニイ・リンドの歌うのを聞きに行った。
時々は用事と保養とを兼ねて旅行もした。英国科学奨励会(ブリチシュ、アソシェーション)にもよく出席した。一八三七年リバープールにこのアソシェーションが開催された時には、化学部の部長をした。その後、会長になれといわれたこともあるが、辞退した。一八五一年イプスウイッチの会でチンダルに逢った。
晩年には灯台の調査を頼まれたので、田舎へ旅行したこともある。
四十五、しなかった事
人の一生を知るには、その人のなした仕事を知るだけでは十分でない。反対に、その人のことさらしなかった事もまた知るの必要がある。人の働く力には限りがあるから、自分に適しない事には力を費さないのが賢いし、さらにまた一歩進んで、自分になし得る仕事の中でも、特によく出来ることにのみ全力を集注するのが、さらに賢いというべきであろう。
ファラデーは政治や社会的の事柄には、全く手を出さなかった。若い時に欧洲大陸を旅行した折りの手帳にも、一八一五年三月七日の条に、「ボナパルトが、再び自由を得た(すなわちナポレオン一世がエルバ島を脱出したことを指す)由なるも、自分は政治家でないから別に心配もしない。しかし、多分欧洲の時局に大影響があるだろう」と書いた。後には、やや保守党に傾いた意見を懐(いだ)いておったらしい。
ファラデーのような人で、不思議に思われるのは、博愛事業にも関係しなかったことである。もちろん個人としての慈恵はした。
また後半生には、科学上の学会にも出席しない。委員にもならない。これは一つは議論に加わって、感情に走るのを好まなかったためでもあろうが、主として自分の発見に全力を集めるためであった。
食事に招かれても行かないし、たとい晩餐に出席しても、直きに帰って来るという風であった。旅行先でも、箇人の御馳走は断わった。訪問を受ける時間にも制限をもうけた。これでいかに自分の力を発見に集中したかが窺(うかが)われる。
田園生活や、文学美術の事にも時間を費さない。鳥や獣や花を眺めるのは好きだったが、さてこれを自分で飼ったり作ったりして見ようとはしなかった。音楽も好きではあったが、研究している間は少しも音を立てさせなかった。
四十六、訪問と招待
時々、訪問者があるので困った。ある朝、若い人が来て、新研究をお話し致したいと、さも大発見をしたようにいうので、ファラデーは面会して、話をきいた。やがて書棚にあるリーの叢書(そうしょ)の一冊をとって、
「君の発見はこの本に出てはいないか。調べたのかね。」
「いや、まだです。」
ファラデーは頁(ページ)をくって、
「これは四十年も前に判っている事ではないか。このようなことで、私の時間をつぶさないようにしてくれ給え。」
しかし、誰か新しい発見でもすると、ファラデーは人を招いて、これを見せたものだ。発見の喜びを他人に分つというつもりである。キルヒホッフがスペクトル分析法を発見したときにも、ファラデーはいろいろな人に実験して見せた。ブルデット・クート男爵夫人に出した手紙には、
五月十七日、金曜日、
拝啓明日四時にマックス・ミュラー氏の講演すみし後、サー・ヘンリー・ホーランドに近頃ミューニッヒより到着せる器械をもって、ブンゼンおよびキルヒホッフ両氏の発見したるスペクトルの分析を御目にかくるはずに相なりおり候。バルロー君も来会せらるべく、氏よりして貴男爵夫人もその時刻を知りたき御思召の由承わり申候。もし学究の仕事と生活とを御了知遊ばされたき御思召に有之、かつ実験は小生室にて御覧に入るるため、狭き階段を上り給うの労を御厭い無之候わば、是非御来臨願い度と存候。誠に実験は理解力のある以外の者には興味無之ものに御座候。以上。 エム、ファラデー
入力:松本吉彦、松本庄八 校正:小林繁雄
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